価値を認め対価を支払ってくれる人のもとへ行くのに、「完成度が最も邪魔をする」と強く感じる。
と、前の投稿に書いた。
完成度では、対岸に橋を架けることは不可能だ。
しかし、対岸に行かなければいけない。
現在地では誰もなにも、私の感動を評価してくれないのだから。
解像度で物事をみると、越境できる。
解像度とは、哲学的であるかどうか。ということだ。
解像度とは、哲学的であるかどうか。ということだ。
物を、上手くできているか?綺麗にできているか?と完成度でみるのではなく、
感動するか?美しいか?という視点でみる。
そのためには自身の哲学が必須だ。
自分のものさしで判断する必要がある。
そのためには自身の哲学が必須だ。
自分のものさしで判断する必要がある。
完成度に囚われず、解像度で表現することで、越境できる。
完成度は、新たな地に踏み入れてから、高めれば良い。
幾つかの写真を並べようと思う。
あなたの目には、「A」と「B」どちらが解像度が高く映る?完成度が高く映る?
続いては、この2枚だ。
Aは「サンプル」と呼んでいるものだ。
250年前の着心地を、試着して体感できるように製作した。
解像度でみたとき、完成度でみたとき、AとBはどう映る?
Bは、「型紙」だ。
Aの衣服標本から、美しい構造を抽出し整え、製作した。
上記3枚、私にとっての解像度は、すべて衣服標本が勝っている。
衣服標本ほど、私の感動を具現化したものはない。
ただ、自分のなかで衣服標本の完成形は、まだ見えてはいない。
しかし、サンプルも型紙も、衣服標本がなければ生まれなかったものだ。
Aの本物と、Bのサンプル。
「このような比較を完成度のみで行っている」のが、苦しみの原因ではなかろうか?
「このような比較を完成度のみで行っている」のが、苦しみの原因ではなかろうか?
気付かないうちに、この状態に陥っている場面を何度も見たことがある。
「技術」が完成度のためにのみ使われるのは、悲しいことだと私は思う。