ひとつ前の投稿に抽象化について書いた。
ただ、「抽象」という言葉は、人に話すときにあまりピンとこないと感じる。
文字通り抽象的で、なんのことがイメージし辛い。
そこで、自分は「解像度」と「完成度」という言葉に置き換えている。
私は技術職だから、完成度という言葉には親しみがあるし、一般的にもよく使われる言葉だろう。
私のなかでは、抽象を解像度/具体を完成度として見ることにしている。
10年ほど洋服をつくる現場にいて感じたことは、多くの場合「完成度」を高める方向にむかう。
そりゃそうだ。
完成度の低い洋服では、クレームがきてしまう。
私もよく完成度が低いと言われた。
私が言われた完成度とは、例えばシルエットがイマイチだとか、縫い目が汚いだとか、デザインイメージと違うとかだ。
そう指摘される理由には、お手本との乖離があるからだろう。
学校なら教科書だし、パタンナーならデザイナーの描くデザイン画だし、工場ならブランドから届く仕様書なりサンプルであり、店舗ならマニュアルだ。
つまり、私は完成度にはゴールがあると思っている。
そのゴールに如何に近づけるか?が、完成度の勝負ではなかろうか。
しかし、その勝負は極めて脆いなとも私は思う。
その理由はゴールには絶対に辿り着けないからであり、ゴールも同じ方向に進み続けているからだ。
ヴィンテージに「ヴィンテージらしさ」で勝負を挑んでいるようなものだろう。
そこで、「解像度」という側面から見てみるとどうなるか?
私は、解像度のことを「=」イコールだと思っている。
完成度を高める(切れないゴールテープを追う)よりも、解像度を高める(=を増やす)方向に舵を切りたい。
=を増やすとは、環境を増やすことだ。
場を増やす。
評価軸を多数もつ。
評価されるところへ自ら行く。
価値を認め対価を支払ってくれる人に会いに行く。
そんな感じだと思っている。
私は、価値を認め対価を支払ってくれる人に会いに行くのに、「完成度が最も邪魔をする」と強く感じる。
完成度では=にならない、対岸に橋は架からない。
この続きは、また今度書こうと思う。