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運命はデザインできるのか?

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なぜ運命なのか?

運命の購買意欲は強い。と、思った。

もし、私が「もの」を売るならば、それは例えば、私にもっとも身近なものでいえば私がつくる洋服だろう。

私のつくる洋服は、嗜好品である。
必要のないものを売っているという自覚はある。

更にいえば、誰に頼まれたものでもない。1つだけしかつくれない。機能性は劣っている。
そんなものであることも理解している。

このようなものを購入する人の購買意欲を、もっとも強く突き動かすのは運命ではないのかと考えた。
だから、運命をデザインできないか考えた。

運命とは「潜在意識のなかにある理想像が表出した結果」ではないか。
言語化が完了すると、同一視による一目惚れは無くなるのではないか。
運命は、哲学×表現×問い+記号でデザインできないか。
哲学に人が集い、表現で可視化し、問いを呼び覚ます、そして記号が後押しになるのではないか。
嗜好性/作家性/希少性が強いものは、運命をデザインすべきではないか。

運命は、狭く小さく深い方が良いだろう。
広く大きい浅い運命なんて、それは運命ではないだろう。
印象深く、記号的で、属人的であることは有利に働くだろう。

しかし最終的な決め手となるのは、相手が自分自身で運命だと定義づけることではないだろうか。
運命だと気付かせるためには勧めることはせず、問うことをする。
余白を与えることだろう。

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