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好きでしか進めない

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2016年の9月に独立し、フリーランスとなった。

個人で2年9ヶ月を生きた。
振り返ってみると、私の仕事は独立当初から大きく変化した。


広く言えば
「つくる」から「うみだす」に変わっていった。

肩書きは
「モデリスト」から「衣服標本家」となった。

この変化は一体なんだろうか。
仕事はどう変わっていったのか。
技術に生きる人間の、ひとつの事例として書き残す。


私は「モデリスト」として独立した。
私がパタンナーと名乗らないのは「設計」だけではなく「製造」または「デザイン」をも手掛ける場合がほとんどだからだ。

「洋服のパターンをつくる」という設計の部分だけではなく「工場で量産する」という製造の部分も私はセットでみる。
通常は「パタンナー」と「生産管理」に分かれる仕事だ。

設計や製造の少し手前の「洋服のデザイン」から依頼されることも少なくはない。
言わずもがなそれは「デザイナー」の領域だ。

案件によっては「洋服の縫製」を私自身が手掛ける。
もちろんそこには「縫製士」という仕事がある。

私のモデリストとしての仕事は、1着の洋服に対して「深い」関わり方をするのが特徴だ。
「デザイン、パターン、縫製、グレーディング、資材手配、量産」まで、責任を持つ。
1つの案件に対して3ヶ月~半年ほど関わる。

しかし、私が対応する領域は「狭い」。
私は「布帛の紳士服」しか手掛けない。

サラリーマン時代に、婦人服やカットソー製品も経験したが、独立してまでやろうとは思わなかった。

私は、独立するにあたって「できること」を並べるよりも「やらないこと」を明確に提示した。
私にとって「なんでもできる」は「なんにもできない」と同意義だった。

やらないことを明確にした結果、私は、私が提供できるベストのものを全力でやれる環境を得た。日々の暮らしは豊かになった。

独立すると、不安からなんでもやってしまう。
悲しいかな、技術はすぐに価値に変換できてしまうから、短期的な不安を解消するために、なんでもできると謳ってしまう。
なんでもできるは赤い海だと気付いているにも関わらず。

やらないことを明確にするとは、専門性をもつこと。ひとつの分野で抜きん出ることだ。
すると必然的に深い取り組み方になる。
パターンだけ、縫製だけといった、点の関わりでは到底、納得のいく表現はできないだろう。
専門的なものの完成度を高めるには「深く・長く」関わることになる。


続けていくうちに気が付く。
深く長く関わるとは「技術」の関わりでは無いことに。

「長谷川 彰良だからやってほしい」という関係性になる。
すると、さまざまなものが抽象的にまわり始める。
洋服をつくるという1点のみが事象で、その先には靄がかかる。
私は、霞んだなかを歩み辿りつく1着を求めたい。その歩みを進めるために技術を用いたい。


貴方が技術職で独立するならば、私は、技術を磨くよりも貴方の「好き」を追及すべきだと言うだろう。
全ての前提が好きに集約されるのは火を見るよりも明らかだから。


ここまで書いたことが、私のモデリストとしての実務であり仕事観だ。
そして私は2018年7月、モデリストから軸足を抜いて「衣服標本家」として生きていくことにした。独立から1年と10ヶ月だった。


きっかけは2018年5月に開催した半・分解展だった。
私は、あの日、初めて「好き」が実を結んだと感じた。

好きとは、情熱だろう。
時間も忘れて没頭してしまう。
溢れる探究心を抑えきれず、好奇心の赴くままに突き進む。
それが好きということではないか。

しかし、いつしか現実を知る。
好きなだけで生きていくのは難しいと。
現実とのバランスを取って生きていくことを覚える。

「好き」はすぐには実らない。
長い時間、自分のなかで育てなければならない。
何故好きなのか、好きとはなにか、言葉にできないほど好きだから、問い続けなければならない。時には技術が代弁してくれるだろう。

半・分解展は、感動を技術で分解し、技術が感動を組み立てた。

初めて経験した「うみだす」仕事だった。
するとモデリストは「つくりあげる」仕事だったのではないかと思う。

生み出すとは、前例無き挑戦だ。
だからこそ、好きが生きる。むしろ、好きでしか進めない。
挑戦が衣服標本家の仕事だ。



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