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言葉にはできない、形にはできる

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私は、20歳のときに出会った1着の古着を「感動」と捉えました。


きっと貴方にもあるでしょう。
例えばそれは、1冊の本に。
例えばそれは、ひと夏の白球に。
例えばそれは、窓辺で過ごす1日の終わりに。

涙が頬をつたいます。

私は、たまたまそれを古き衣服から受け取った。

ただそれだけで、それだけが私の全てでした。


月日は流れます。
学業を終え、社会に出てプロとして仕事をし、独立し、ようやく気付いたことがあります。

私は " たまたまそれを古き衣服から受け取った " のではなく「自らの手で掴み取っていた」のです。

与えられたのでなく、掴み取った。

誰も見向きしなかった100年前の消防服から、私だけの感動を掴み取った。

100年前の消防服の「衣服標本」

この感動は私にしか表現できないのです。
私の言葉でのみ、話さなければいけないのです。

「100年前の感動を100年後に伝える」ために生きていくのです。

そうして生まれた半・分解展は、私の想いを最も色濃く反映した自己表現です。


私が伝えたいのは古き衣服じゃない。
感動です。


だからこそ、私は「技術」を捨てます。

技術を持ってこそ掴み取ることできた感動。
しかし、その感動を伝えるには、技術が最も大きな障害となりました。

技術は間違いなく視野を狭めます。

学べば学ぶほどに、知れば知るほどに、私を狭く小さなところに追いやりました。
服を服として見ている限り、その服の感動を掬い取ることはできません。


私は運が良かったのです。
技術から離れる環境が整っていたのです。

ふたりの子と過ごし、本を読み、そとを歩きます。
すると次第に、自然に、それは当たり前だったかのように、やるべきことが浮かんでみえます。
技術が生きてくるのです。

そうして、生まれたのが「衣服標本」や「試着サンプル」でした。
これらは私の感動そのものです。

誰もが見て、触れて、嗅げて、袖を通せる私の感動なのです。

100年前の消防服の「試着サンプル」




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