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寿司屋になりたかった

 


21歳のとき、私は寿司屋になりたかった。

「旬のものを、お客さんの目の前で、握って渡す」
そんな服屋さんになりたいと考えた。

学生のころ、将来どうなるのか、まるで想像がつかなかった。
自分がデザイナーになるのも、どういったことかよくわからなかったし、パタンナーという仕事だっていまいちつかめなかった。
ブランドを立ち上げるってどんな状態を指すのか、具体的にイメージが湧かなかった。

でも寿司屋みたいな服屋さんは、学生の自分でも「なんか良いな」と思えた。

結果、32歳のいま、私は寿司屋になっていない。
なれなかったのか、ならなかったのか、どちらといえば私は、ならなかった。

専門学校を卒業し、21歳から社会人となり27歳で独立。5年半勤めた。
最初の2年間くらいは、本気で寿司屋みたいな服屋になることが夢だった。

仲の良かった人事部長にそれを勝手にプレゼンしたりした。
部長は面白がってくれて「じゃあ勉強だ」といって、私を都内の寿司屋を中心に数十軒のお店に連れて行ってくれた。

部長は食が趣味の人間だった。
自分ではとてもいけないようなお店ばかりに連れて行ってもらえたことを、非常に感謝している。

私は決まって、カウンター席を希望した。
職人の所作がみたかったからだ。

もし、自分が将来寿司屋になったら、どんな風に振舞えば良いのか学びたかった。
緊張感のある店、少しくだけた店、リラックスできる店、驚きのある店、空間を愉しむ店、いろいろな所作と表現をみた。

職人が目の前で包丁を握る姿は、素直に美しいと思った。


社会人になって3年が経つと、さすがに業界の全体像は大体掴めたし、業務内容もほぼ慣れた。
そしてアパレルに勤める人間の多くがそうなるように、アパレルという業界に見切りをつけた。
ここじゃないと思った。

だけど、服への愛はなにひとつ変わらなかった。
探究心は日に日に増大し、起きてる時間は服のことしか考えられなかった。

平日は朝から終電か終電過ぎまで仕事をし、帰宅後は寝る時間も惜しんで自分の研究する旧き衣服についてBlogを書いた。
土日は副業で稼いだお金でテーラーの塾に通った。

旧き衣服を愛して愛して、寿司屋ではないと思った。
「服をつくる」という行為に疑問を抱いたからだ。

服をつくることをしたくないと思ったし、服をつくることでお金が稼げる感じもしなかった。

会社の仕事内容は、かなり恵まれていた。
技術職にとっては、夢のような仕事場だったと思う。

だからこそ、こんなに汗水たらしてつくった1着が、1型が、1回購入されるだけ、1シーズン過ぎるだけで、もうほとんど無価値になる現実に納得がいかなかった。

私が愛する旧き衣服たちは、時が経つごとに価値があがっていくというのに。


「旬のもの」という時間軸が、どうしても私には合わなかった。
流行り廃りのないものを、永遠に価値を生み続けるものをつくりたかった。

「お客さんの目の前で」という表現に飢えていた。
パタンナーやモデリストという職業柄、表には一切でない。
年に数回のイベントのとき店頭に立ち、お客さんと会話する時間は、ただ幸せだった。

「握って渡す」ことは、必ずしも完成品でなくて良いことに気が付いた。
ただ自分の手で仕事をする、握ることは必須だ。自分の手が、何物にも勝る仕事道具なのだから。


寿司屋を夢見て、学生から新入社員を駆け抜けて、多分きっと私は、美術館のようなものをつくりあげた。
私はよく、半・分解展を、ガラスのない美術館と表現する。

美術館のようなスタイルも、寿司屋を考えているときから候補にはあがっていた。
だけど、なんとくイメージしていただけで、今のようなスタイルになるなんて想像もしなかった。


今もまた、茫々とイメージだけしている未来がある。
過去をとことん学んで、未来に色をつけて生きていきたい。